今でもあなたはわたしの光
私は昔から死にたいとそればかり願っているくせに、本当に自分が死ぬなんてことを全然信じられないでいる。
それは他者も同じで、自分の大切な人がいつか死ぬということを、微塵も想像できないのだ。
もちろん24年も生きているのだから、それなりに人の死は目にしてきたが、色々、全部整理できずにみんなあっという間に骨と灰になったから、肉体が突然いなくなるということに呆気にとられたまま、いつまでもいつまでも魂だけが私が目にするあらゆる景色に佇み、見つめられ、見つめている。
いったい不倫さんはどこにいったんだろう。
奥様から、非通知電話や不倫さんのアドレスからの警告が何度かあったが、私はそれを全て無視して、当たり前のように不倫さんと連絡をとっていた。
と言っても、日に2、3通程度。
体調を聞いて、不倫さんがそれに答えるというだけ。
電話していいですかとも、会いたいですとも言えない。
癌患者の生活サイクル、体力、何より奥様の存在、あんなにも私と不倫さんは近くにいたのに、私は何も知らないしきっとこれ以上何もできないんだろう。
そんな歯痒さを感じていた。
その最中、奥様から最後のメールが届いた。
最後と言うのは、このメールに対し返信をしたところエラーメールが返ってきたからだ。つまり不倫さんのアドレスが無効になっているということ。着信拒否、LINEもおそらくブロック、私は不倫さんに連絡をとる手段を一切失った。
私は夫とあなたの関係に気づく前から、結婚してからずっと、夫を守ってきました。
痙攣する夫を見ながら泣きながら仕事して、夫を守ってきました。あなたに私の気持ちがわかる?
あなたは自分の愛が美しいと思いますか?
今後一切、関わらないで。
ごめんなさい。
それでも私は、自分の愛が間違いだとはどうしても思えないのです。
私と不倫さんを繋いでいたものが愛でないとしたら、いったいふたりの関係を何と名付ければよいのでしょうか。
不倫は倫理的にも法的にも罰せられるような醜く、汚く、不埒な行為だとわかっている。だから、それ自体非難されることに抵抗はない。私たちは大切な人を裏切り傷つけながら無邪気に笑い合っている極悪非道の共犯者です、でも仕方ないでしょう好きなんだから、なんてこと当事者が言えるわけないから、開き直るか押し黙るか、それしかできないのだ。
ごめんなさいごめんなさい、愛がなにかもわかっていないくせに。
不倫さんの横顔が好きだった。煙草を吸う時の仕草が好きだった。お父さんみたいな優しさが好きだった。私がワガママを言ったとき苦笑いしながら抱きしめてくれるのが好きだった。セックスのとき私の足の指を舐めるのが好きだった。声が好きだった、髪の毛が好きだった、有給をとって私を色々なところに連れて行ってくれた、草津もディズニーも横浜の薔薇園も全部綺麗だとおもった。
私は美しくないけど、不倫さんは美しいと思った。不倫さんが生きる日々が美しいと思った、それら全てに触れたかった。
いいよなあんたは、心から愛する人の死を見届けることができるんだから。
死ぬなら死体くらいは残してってよと笑って言った私の前から、不倫さんは突然消えた。
わたしはあの日から目を見開いたまま、不倫さんの最後の言葉を繰り返し繰り返し思い出しては、行き場のない虚しさに振り上げた拳すらくうをかく。
1時間半かけて向かった先はもぬけの殻。
不倫さんの車も、犬も、ポストも、生きているものはひとつもなくて、初めから誰もいなかったみたいに、集合住宅のそこだけ空っぽで、私は呆然と立ち尽くしたまま、色々なことを諦めていた。もう会えないんだろう、一生。いっしょう、いっしょう?
彼氏より長くいたのに?
「あきちゃんが1人になっても俺がいるから」と結婚する未来まで思い描いていたのに?
今度飛騨牛食べようねって約束したくせに。
こんな関係だからお互い、死んだ時に手を合わせにいけるようにって住所まで教えあったくせに、その肝心な家だって空っぽじゃないか。どこにいったんだよ。
不倫さんは、いったいどこにいったの。
私は、おいちゃんという彼氏と同棲を始めて、おいちゃんが「拍子抜けした」と驚くくらいに、共に穏やかな生活をおくっている。
結婚をして、そろそろふたりの家を買って、子供は何人欲しい?なんて会話を真面目にしている。
不倫さんがいなかったら、私はこの生活を手にできなかった。
おいちゃんといても寂しくて寂しくてひとりぼっちだった悪夢のような日々を、支えてくれたのは間違いなく不倫さんだった。
私は、不倫さんがいてくれたからおいちゃんのことを愛することができた。優しくすることができたのだ。
何もかもがダメになっても、不倫さんがいてくれると思えば私は絶対に死ななかった。
不倫さんは私の光だったんだ。
私はこの数ヶ月、おそらく、不倫さんの代わりになる人を探していた。
意識的にそうしているわけではなく、男性と関係を持った時に、きまって「不倫さんとは全然違う」と比べている。
「言ってなかったんだけど俺実は結婚してるんだ、ごめんなさい、嫌わないで」と何人かに告白されたが、それが何だよと思う。
だったら浮気なんてしなきゃいいのに。
それでも私は「嫌いになんてなりませんよ」と微笑む。好きにもならないけどね、と腹の底で声が聞こえる。
彼氏の次でいいから、と誰もが言うが、不倫さんがいる限り、貴方がたは一番になれないのだ。
42歳、妻子あり、男前で趣味は走ること、役所務めで子供のサッカーの試合に行くいいパパ。
最近になって猛烈なアプローチの末、いわゆる不倫関係となった。
奥さんとの仲は最悪で、夫婦関係なんてとっくに破綻していて、子供が大きくなるまでの同居人という認識らしい。
この関係になって、会うのはまだ3回目だというのに、よく行くという長野でお泊まりをした。
朝から晩まで私のことをかわいいかわいいと褒めちぎり、好きだ、愛していると囁く。
あきちゃんの幸せを願っているから、はやく彼氏と結婚してほしい。でも俺はできるだけ長く一緒にいたい。と会う度に言う。
俺でいいの?騙されていない?
こんなおっさんだぜ信じられるかよ、と。
すみませんね、私おじ専なんです。
「あなたがいいの」と言ってみたけど、でも本当は不倫さんがいいんです。
おいちゃんは私のことが大好きで、私もおいちゃんのことが大好きで、大好きな人と毎日一緒にいられて私の心は満たされてしまって、あの頃の闇雲な寂しさとか悲しさとか怒りとか、不思議だけどもう思い出せないくらい私は今とても幸せだから、ほんとうは浮気なんてする必要もないのだけれど、こうなってしまうんだから、もはや気質です。
病気だと許されてしまうみたいだからあえて気質にします。
おいちゃん以外の男とセックスするとき、不倫さんの名前を呼んでいる。
誰か助けて、誰か助けて、だれかだれかだれか、不倫さん不倫さん不倫さん、たすけて、と。
長野の爽やかな朝、これから走りに行くからあきちゃんは寝ててと彼は私の顔をキスでベタベタにしながら出ていった。
私は懺悔しながら眠った。
おいちゃんにではない、不倫さんにだ。
もうあなたはいないのに、私はあなたを取り戻すためにおなじ過ちを犯している。
長野、本当にいいところでした。
生い茂った緑が深く輝いていて、風が涼しくて、このまま消えてなくなるにはもってこいだと思いました。
いつか来る別れを自分で選択しなければならないのなら、不倫さんのように、突然に失われた方がよかったのだろうか。
心から愛し合ったふたりはある日悪い魔女によってバラバラに引き裂かれてしまいました。そんな悲劇的な物語のように。
そっちのほうが綺麗だし、かわいそうだし、ずっとずっと忘れないでいられるし。
血液の癌、ということしかわからない。
だから今、生きているのかも死んでいるのかもわからない。どこかで幸せになっていればいいと思う。
奥様に愛され愛し、健康に、幸せに生きていてくれればと心から願っている。
でもそれはちょっとだけ強がりだ。
だって、不倫さんは死に損ねたまま幽霊になってしまったから。
夏みたいな人、海みたいな人。
寂れた非常階段で煙草をふかして私を見て笑っている幻影が、連日の暑さでぼうっとする頭の中、視界に浮かんでは消える。
平成最後の夏、あなたと見たかったです。
不倫さんは肉も灰も骨も魂も残さないまま幽霊になってしまった。
私はあちらこちらに不倫さんの影を見て、何か話してよと怒って、返事がないことに少しだけ切なくなる。
毎日毎日不倫さんの影を、熱を探し回って、この街をさまよっている。
幽霊は私の方だよ。
そのうち季節が巡れば、叶わなかった恋物語として私の一生に葬ることができるのでしょうか。
呪いが光にかわるころ、それを教えてあげたいです。
でも不倫さんあなたには、私が呪いそのものであって欲しいと少しだけ思ってる。